ちょっとした野宿話。
…何に行き詰まってるってあなた、パラレルも改変もだよ…。
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すいと鯵に包丁を入れる様子がいつになく丁寧で、ルックは凝然と隣を覗き込んだ。
いつもなら食えればどんな形状になろうと気にも留めないキキョウであるが、どういう風の吹き回しだろう、あの小さい鯵を一尾ずつ細かく捌いている。
「あんた、やればできるじゃない」
「…え?」
思わず感嘆を漏らしたルックへ、キキョウは何を褒められているのかまったく分からぬといった表情で、びくりと刃を震わせ手を止めた。
ルックは均等に切り分けられた鯵の身をひとつ摘む。
しげしげ眺めて、わずか呆れた。
頭やえらが綺麗に落とされているのは素晴らしいが、よく見ればひれや小骨まで欠片ひとつもない。
普通は油で揚げてしまえばさくりと食べられるし、そもそも奥歯で磨れば簡単に砕けるから、ここまでねちねち取り除かないものだ。
丁寧というよりいささか偏執にも感じられるのはルックの思い過ごしだろうか。
「別にいいんだけどね……あいつに何か言われた?」
ルックは後方へ顎をしゃくった。
せっせと焚き火を熾すアスフェルが何かキキョウへそそのかしたかと勘繰ったのだ。
ルックは几帳面だとかキキョウのがさつなのを疎んでいるとか、そういう根も葉もないことをキキョウに吹き込んでやしないかと疑ったのである。
キキョウはぽかんとルックを見上げた、いや、上目遣いで見下ろした。
「…あのね、スーが」
「スー?」
「…うん。小骨、嫌いって」
キキョウは不安げに瞳を曇らせる。
その憂彩に、ああなるほどとルックはだいたいを推察できた。
多分、スーというのは昔の友人だ。
本当に友人だったのかセックスフレンドだったのかまではキキョウの断片的な発言から汲み取りきれない。
だがキキョウがわざわざ料理を作ってやるような関係だったのだ、浅くはない縁があったのだろう。
もしかすると昔奉公していたとかいう伯爵のことかもしれない。
キキョウの記憶はすべからく曖昧である。
細かいことまでよく覚えていても、何かきっかけがないとなかなか思い出さないらしい。
それはきっとキキョウなりに永い年月を生きるための処世術だ。
元来非常に記憶力の良いキキョウだから、蓄積されるままに溜め込み続ければいつか溢れて破裂する。
知らず、調節しているのだろう。
唯人の経験し得ない歳月をひとり生きてきたキキョウは、やはり唯人には理解しがたい機能をその老いぬ体内へ持つように思われる。
ルックはこっそり目を細めた。
しかし記憶は意地悪なものだ。
今も突然そのスーとやらの思い出へ脳裏にどっと詰め寄られ、キキョウはとにかく言われた通りにやらなくちゃと焦って捌いたに違いない。
ルックはキキョウと目を合わせる。
上手だとは己の頑固な羞恥心ゆえになかなか言ってやれない。
そしてそこまで思いつめなくてもいいと、そんなことくらいで誰もキキョウを嫌ったりしないと、それもルックにはそのまま伝えてなんてやれないのだ。
ルックは切り身を一口食べた。
昼間アスフェルが釣ってきたばかりの新鮮な鯵は生姜に合わせるとかなり美味しい。
もちろん何もつけないで食べたって充分いける。
「好きに切りなよ」
ルックは粗雑に言い捨てた。
後悔はふうと声門をよぎるが、今さら気性を変えられない。
冷たい口調でルックは続ける。
「あいつは、あんたが作ったら何だって食べるよ。信じられない親馬鹿だからね」
「…親?」
「お父さん代わりってこと」
「…アスが?」
「多分ね」
聞いて、キキョウは途端にほわんと笑んだ。
くるりアスフェルへ振り向きながら、お父さん、と小声で呟くのをルックはただ胡乱に見つめる。
キキョウはかわいい。
アスフェルはキキョウに蕩けそうなほど優しい。
いわゆる嫉妬を感じているわけではないのだと、ルックは自分に言い訳をする。
やきもちではない。
むしろ、どこか嬉しい気さえするのだ。
何が嬉しいかは分からないし、多分突きつめて考えれば自分が恥ずかしい目に合うと学習している。
だからあんまり考えないけど。
ルックにとっても家族は今まで得られなかったものだ。
それ以上言及するのはよそう。
ルックは大げさなくらい溜息を吐いて、キキョウの背中をせっついた。
キキョウははたと我に返った様子で鯵へ向き直る。
変わらず丁寧に捌き始めるキキョウが、気づけば鼻歌を歌い出した。
陽気な旋律。
珍しい。
くすりと小さく息が落ちる。
歌を聞かせてくれたのは初めてだ、なんてとてもじゃないが言えなかった。
ルックは笑った。
幸い、アスフェル以外に見咎められることはなかった。
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