1のテンションはいったいどこへ行ったのか。
泣く子も黙る(ユウ除く…)どシリアスです。
死神は俺に抱き付いて初めて、真冬の水温に思い至ったようだった。
「――つめた」
呟けば途端に死神の周囲をゆるゆる風が巡り出す。ドライヤーを彷彿とさせる温風だ。だがドライヤーと違って風に煽られた俺の全身はみるみるうちにからりと乾き、きれいとは言えない川の水の生臭い匂いだけが残った。額に貼り付いていた髪も乾いてふわっと浮き上がる。死神の服もすっかり乾く。
風がどこかへ吹き流れると、死神は半分目を閉じた。眠そうな顔、と言えば聞こえは良かろうが、これは明らかに精力を使い果たした顔である。目を見開くだけの力も残っていないのだ。
俺の鼓動がいやに大きく耳へ響いた。背筋に冷や汗が伝った。なぜ。どうして。彼は消える。それも間もなく。俺の直感は残念なことに滅多に外れたことがない。
彼は気だるく溜息を吐いた。
「悪いんだけど、もうこれくらいしかできないから……ここからは自力で帰ってくれる?」
「君は……君は、死神は」
嫌な予感がますます膨らむ。俺を救った直後に彼が死なんとす、そこに何らかの因果を見出さないわけがない。彼は俺を助けたせいで消えるのだ。死神はすでに死んでいると言った彼の言葉が嘘だとしても、本当だとしても、彼という存在が消え彼を構築する意識体との接触は不可能になる、これから起こるのはきっとそういうことだろう。彼は死ぬ。俺のせいで。
「……この世には……欠けてはならないものがある。大きなうねり、世を変革させ得る、人心を目覚めさせる、歴史の転換になる流れのことを僕らは宿星って呼んでる」
死神の声は凛と澄んだままだった。しかし声量が格段に落ちている。
そんな説明を聞きたいんじゃない。君が死ぬのか、どうなってしまうのか、俺はそれしか知りたくない。無意識のうちに俺はかぶりを振っている。
「あんたにはその宿星、天魁星が宿ってる。だからあんたを死なせるわけにはいかなくて、僕ら死神は禁忌を犯すことに決めたんだ。管理せねばならないはずの運命を率先して捻じ曲げる。宿星を、あんたを、ひいては世界を守るために」
「君を犠牲にして?」
「理を乱してでも守るものがあるんだよ。それを、僕ら死神は知」
細い指に落ちた雫を死神は怪訝そうに見た。出所を辿り、俺を見上げれば、彼はふっと言葉を止めて微笑した。
「……何であんたが泣くのさ……馬鹿」
俺は堪え切れなかった。俺は死ぬ間際に命を惜しいと思わなかった。想ったのは君のことだけだ。例え束の間でも巡り合い視線を交わすことができた奇跡を、これから先住む世界が違っても永遠に相見えることが叶わなくてもこの世のどこかに君がいるだけで世界中がまばゆいことを、君の低い背、強い瞳、綺麗な君の魂を。
俺は死神の指を握った。そこはだんだん透けていた。指は皮膜だけになっていて、触れると割れるしゃぼん玉のようだった。でもまだ物質としてここにある。握った部分は確かに彼の温かみを伝えてくる。
「僕は死ぬけど、もう死んでるからさらに本当の死を迎えるけど……この世から消えるんじゃないんだよ」
「でも君はいなくなる……」
「そうだね」
「――嫌だ」
俺の涙が彼の頬にぼたぼた落ちた。だが幾つめかの涙がついに彼の頬を突き抜けた。彼は透け、彼の腹部に俺の腰と太股とコンクリートが見え始めた。ポンチョの下へ仕舞っていたはずの懐中時計が彼の心臓部に露出した。
「……君は」
「ルック」
君は死にたいのか、と問うつもりだった。俺の死を恐れた彼がどうして自身の今際の刻みにこうも安らかなのだろう。けれど途中でまじないのような単語を彼に押し付けられて、俺は思わず呼吸を止める。ほとんど透明に近くなりながら彼はやはり笑っている。
「……ル……ック……?」
「僕の名前。もうずっと使ってなかったけど」
「……ルック……」
「うん」
「ルック」
「なに……」
透ける死神がはにかんだ。髪の先から光がはらはら散っていた。消えているのだ。彼の纏う黒いスーツも彼の肘も、背も、足も、砂粒のような光になって少しずつ少しずつ消えてゆく。かすかに砂時計を引っくり返した音がする。
「ルック」
「しつこ……」
「さっき言ったことは嘘じゃない。自分でもどうかしてると思ってる。けれど、本気で、君を愛しているんだ。ルック」
「……愛?」
「好きだ。ルックを、いちばん」
俺はルックを死ぬほど抱いた。俺の涙はかろうじてルックの肩を透けずに乗った。転がって肘の先から落ちて、光と一緒にさらさら消える。
ルックは俺の胸元でくぐもった声を小さく出した。
「僕、猫だったんだよ」
「……死神になる前?」
「そう。昔人間に縊り殺されて死んでから死神になったんだけど。昔って、何百年も昔だよ」
ルックの声がどんどん弱る。そんなこと俺は気付きたくなかった。ルックが語る前世の話。そんなもの俺は今聞きたくない。それは、遺言だ。誰かに自分の存在を記憶しておいてほしいがゆえの。消える寸前の最後の足掻き。そんなもの、俺はそんなもの、聞き終わってさよならなんて。絶対に嫌だ!
「……あの時は、死ねてよかったって思ってた。生きてても飢える、失くす、裏切られる、無力、死ぬまで辛いことだらけだった。人間の指が僕の首を絞めた時も、頚椎が折れて咽喉に刺さる……痛くて苦しくて、何で生まれてきたんだろう、何で最初から死んでなかったんだろう……」
「……ルック……」
「だから僕は死神になったんだ」
淡々と話すルックの体はもう胸から上しか残っていない。俺はついに空を切った片腕を、ルックの腰があったところからルックの首元へ移した。全霊を込めて抱き締める。これで繋ぎとめておけるなら腕がもげたって構わない。
「ルック」
「それは、ルック、は、僕の魂の名前だよ。野良猫に名前なんかないからね」
「ルック……っ」
「泣かないでよ……せっかくあんたを助けられたんだから、めそめそ見送られたくないよ……」
ルックは儚く微笑した。綺麗だった。これが末期の笑みかと思うと悔しすぎて涙が溢れた。
「――無理だろう、この馬鹿が! 俺が、誰かの代わりに生き延びて、今回は苦痛なく死ねて良かった、安らかに死ねって……君に笑って!? できると思うのか! 目の前でルックを、愛する人を俺の命と引き換えに!」
俺はルックを本気で怒鳴った。掠れて最後まで言い切れなかった。けれどもう、言えたとしても限りなく無意味だったのだ。ルックは耳も消えていたから。
胸から上はほとんど同時にざっと崩れ、光の砂になって消えた。ルックを抱く腕はいつの間にか空だった。痩せた顎も翡翠の瞳もみんな一遍に消滅し、水面を夕陽とともに照らす。
優しい声が消えかかりながら風に乗って耳へ届いた。
「あんたは……長生きしてね……」
俺は為す術ひとつなかった。消えたルックを抱き締めたまま絶叫した。かしゃん、と後に残ったのは、くすんだ懐中時計の鎖だけだった。
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