坊ルクちゃんのキスの日話をぷらいべったーに投稿したので、こちらにも追加します。
R18ですので成人済の方のみお読みください。
ルックは大きなあくびをする。
足が棒のようだ。一日で山越えなんて、最初から計画に無理があったのだ。
しかしアスフェルに野宿は嫌だと駄々を捏ねたのが自分である以上、ルックは仏頂面で歩き続けるしかなかった。疲れを飲み込み、靴擦れに耐え、この宿までほとんど意地だけで歩き通したのである。
「ルック、眠るなら着替えを」
アスフェルがちらりとルックを見て言う。アスフェルにとっては何と言うこともない山越えだったのだろう。一泊する部屋を整え、てきぱきと二人分の荷物を整理したり、明日の食糧を確認したりと忙しなく動き回っている。
ルックは二つある寝台の一つへ頭から突っ込んだ。
着替え? それより眠気が勝っている。ブーツをまだ履いたままだが、脱ぐ気にならない。靴擦れを見られたらうるさそうだし、自分でも一度脱いだらもう履けなくなる気がしている。布団に土がついてしまうが、このまま寝たって平気だろう。
寝台にはふわふわの布団が敷かれていた。うつ伏せで寝台に突っ込んだルックを優しく受け止めてくれる。洗いたてのシーツの感触に、昼間しっかり干された太陽の匂いだ。ルックはうとうとと瞼を閉じる。
「ルック、寝る前に」
「んー……」
アスフェルが何か言っているけれど、ルックはもうまともに話せなかった。いつもならみっともないところをアスフェルに見せるのが嫌で何でもないふりをするけれど、今はそれができないくらい、限界だ。眠気がルックを絡め取っている。
ルックはうつ伏せのまま、手を数度だけぱたぱたさせた。とにかく少し寝かせてくれ、の意だ。
「どうした」
アスフェルが寝台に腰かける。ルックの後頭部にぽんと手が置かれ、髪をさらさらと撫でられる。まだ短く、不揃いの髪の毛だ。それをまるで肩まであるかのようにさらさらと撫でられて、アスフェルの指が髪を通り抜ける感触にルックはほっと息を吐く。
アスフェルの忍び笑いが聞こえてきた。
「ルック、布団に埋もれて窒息しそうだ」
「ん……」
「俺が顔を見たい。それじゃあ駄目か?」
「……ん……」
アスフェルがルックを仰向けにする。壊れものでも扱うようにそっと抱えられ、アスフェルの腕の中で、至近距離から顔を覗き込まれる感覚がする。ちょっと、さすがに、恥ずかしい。ルックは薄目を開けてしまう。
「布団の皺の跡が」
アスフェルが無邪気に笑っていた。ルックの顔に、皺の跡が付いているらしい。くっくっとアスフェルは肩を震わせて笑い、指で頬をなぞってくる。そこに跡があるのだろう。
ルックはいよいよ恥ずかしくなってきた。
「山越え自体はルックの体力を充分考慮したつもりだった。けれど、まさか途中で山賊に出くわすとはな。この辺りもあまり治安が良くないようだ」
アスフェルは独り言のように呟いている。ルックの頬をぐにぐに揉んだり、ルックの前髪を指に巻き付けてみたりしながら、明日はどうしようか……と遠くを見ている。
「ああ、先にルック、靴だけでも脱がせるよ」
ぱっとアスフェルが立ち上がった。ルックは放り出される形になって、ふわふわの布団にぼふっと埋もれた。眠気はどこかへ吹っ飛んでしまい、代わりに顔がみるみる熱くなっていく。
アスフェルがあからさまにルックを甘やかすから悪いのだ。
ルックはたまらず起き上がり、アスフェルに文句を言おうとした。が、片足を持ち上げられ、すこんと後頭部からふわふわ布団へ逆戻りだ。
アスフェルが手際よく編み上げブーツを解いていく。きっちり締め付けられていた足が解放されて、一気に血の巡るような気持ち良さにルックは思わずうっとりする。
しかし、はっと、靴擦れのことを思い出した。
「あ、アスフェル!」
見られたらまずい。ルックは足をばたつかせて逃げる。
「自分で脱ぐから放っといて!」
だが遅かった。アスフェルが眉を顰める。ブーツの中から血の滲んだ足が出てきてしまったのだ。
「……ルック、いつからだ」
分かりやすく、アスフェルの機嫌が急降下した。嫌がるルックをいとも簡単に抑え、もう片方の靴も脱がせてしまう。
「放っといてって言ってるでしょ。明日は転移で移動するから問題ない」
「歩き方がぎこちないとは思っていたんだ。疲れのせいかと」
「そうだよ、疲れてるから寝るの」
「手当てが先に決まっているだろう」
「自分でできるから放っといて」
アスフェルはルックの足を、そっと布団の上へ戻した。ふわふわの布団へ血が付いてしまう。土なら払えばすむが、血はそうもいかない。
「ルック……」
アスフェルがふいに情けない声を出した。
「もっと自分を大事にしてくれ」
何であんたが泣きそうなの。ルックはわけが分からなくなってぎゅうっと拳を握りしめる。放っておいてほしいのにそうしたらアスフェルが傷ついてしまう。ルックが我慢してもアスフェルは喜ばない。自分一人の身に起こった出来事が誰かの気分を損ねてしまうなんて、理屈がつながっていないではないか。ルックという一個人の領域が、勝手に侵食されているような気がする。
アスフェルは泣きそうな顔のまま黙って部屋を出て行ってしまった。宿の小間使いに湯を頼み、清潔な布を用意しているのだろうと想像はついたけれど、ルックの荷物にはちゃんと優しさの雫の札が入っているのだ。
ルックは裸足で寝台を降りた。足の裏がちくっと痛む。靴擦れというより血豆ができて、さらにそれが潰れたのかもしれない。痛いことは痛いが、ルックにとっては大したことのない痛みだ。
「アスフェルのばか……」
大したことないのにあんな顔をされたら、ルックが罪悪感を覚えるではないか。それに、たった数歩で荷物から札を取り出せるのに、アスフェルの顔がちらついて足が動かない。
「床を汚さないためだからね……」
ルックは寝台に上り直して、膝を抱えてふて腐れる。そもそも自分で癒しの魔法くらいかけられるし、痛みより眠気が勝っていたくらいだ。こんなの全然、大したことじゃない。
(あんたが傷つくことじゃないのに)
ルックはたまらなくもやもやした。だから、しばらくしてアスフェルがやっと戻ってきた時に、ルックはまず枕を投げつけた。
もちろんアスフェルはひょいと避け、枕は廊下に力なく落ちて、もやもやがいや増しただけだったけれど。
「アスフェルの馬鹿!」
「湿布まで貰ったよ。山越えで足を挫く客が多いそうだ」
「反撃くらいしなよ!」
「相手がテッドならこの湯を桶ごと浴びせていたかもしれないな」
「僕にだってやればいいでしょ? 僕はお姫様でも何でもないんだから!」
「……元気そうで良かった」
アスフェルがふにゃっと力なく笑った。
元気がないのはアスフェルの方だ。ルックは出鼻をくじかれた思いで、渋々アスフェルの手当てを受ける。湯が温かくて気持ち良い。沁みるけれど足が解れる。湿布はふくらはぎに貼るとさっぱりして、疲れがいくらか取れたようだ。
かいがいしく動くアスフェルを見ていると、ルックはだんだんアスフェルがかわいそうになってきた。ルックに比べれば疲れていなさそうではあるけれど、まったく疲れていないわけではない。何せ、山賊を棍で次々に景気よくかっ飛ばし、麓の自警団へ放り込んできたのだ。
昔はもっと穏やかで丁寧な男だったと思う。それが今はどちらかというと、ルックにだけ丁寧であれば他は多少手荒でも良いと割り切っているようだ。ルックとしては、僕みたいなのに構う暇があるなら国の一つでも守ってきなよ、と言いたくなるのだが、アスフェルはしつこくしつこく、ルックが好きだからもう離れない云々と陳腐なことを言っている。
かわいそうだ。僕を好きになったばっかりに。疲れてもさっさと休めないで、他人の足に包帯を巻いているなんて。
「よし、できた」
アスフェルが明るく笑った。元気になってきたようだ。
「……あ、ありがと……」
「ルック!」
ルックがもごもごと礼を述べると、アスフェルはぱぁっと目を輝かせた。
「俺が無理をさせたんだ。気にしないでほしい。そうだ、足を揉もう! しっかり解して明日一日休めば、ルックなら充分回復するだろう? トウタに整体を少し教わったんだ。歩きすぎた時と、本を読みすぎて肩が凝った時にも解してあげられるよ。な、俺はこの十五年で成長しただろう? 見直したか? ああいや、答えなくて良いから、ルックは回復に専念してくれ。次の村まで道は長いからね」
「わかったから引っ付かないで」
アスフェルはあっという間に上機嫌になった。
かわいそうだ。ルックの小さな一言でこんなにも喜ぶなんて。アスフェルの個人的領域はほとんどルックのものになっている。
「……馬鹿だね、あんた」
ルックがいざとなればアスフェル一人を残し自分の身を投げ出してしまう性格であることを、彼ほど知っている人はいないというのに……。
だがアスフェルが喜々としてルックの足を揉み始めたので、ルックはそれこそ馬鹿らしくなってしまった。アスフェルに言われるがまま、寝台の上で仰向けになったりうつ伏せになったりする。アスフェルは自分で成長したと言うだけあって、あんま師の真似事が驚くほどうまい。足の裏は傷に障らぬようそっと揉んでくれて、その後、足首、脛、ふくらはぎと、下から順に揉み解される。痛いくらいにつぼを押してもらう方が解れる実感があるのだけれど、アスフェルの力加減はあくまでも優しい。何だか胸がくすぐったくなるようだ。
やがてアスフェルの手が、うつ伏せになったルックの太股をさすり始めた。
「ルック、細いな」
「あんたに比べればね」
「この足であんな切り裂きを放つんだ。いつ自分の体を支え切れずに吹き飛ばされるかと、俺は」
「そんな魔術師聞いたことないけど」
「昔を思い出すな。トランで、魔法兵団の先頭に立って、ルックは顔色一つ変えずに敵陣を攻めていた。後ろの大人が震えていたよ。あんな小さな体のどこから魔力が湧き出てくるのかって」
「後ろってクロウリーでしょ……。それは自分が前線に出たくないから僕に押し付けるための方便だよ。孝行者の孫を持ったとか言うから眠りの風をお見舞いしてやったけど」
「クロウリーでも冗談を言うんだな」
アスフェルの手はルックの太股を丁寧に揉んでいる。やがて太股の付け根に辿り着くと、腰の横をさすられる。
「ちょっと、そこやだ」
腰骨の出っ張りが変にむずむずして、ルックは身をよじって逃げた。
「撫でただけだよ」
「やだって」
「くすぐったかったか? 揉まれて痛いよりくすぐったい方が良くないんだ。しっかり解そう」
アスフェルはルックの腰を揉んだ。ルックはくすぐったさに声を上げる。
「ちょっと、やだ、やめてってば」
「体の歪みは腰に出るんだ」
腰と言いながら、アスフェルはルックの脇腹もさすり始める。いたずらっぽい顔だ。ルックはくすぐったさのあまりじたばた暴れ、アスフェルは楽しそうにルックをくすぐった。普段のアスフェルはルックに対してからかうようなことをしないのだけれど、もしかしたら、先に挙がったテッドの例でそういう気分になっているのかもしれない。
暴れ疲れてルックが怒ると、アスフェルはぴたっと手を止めた。
「かわいい」
アスフェルが楽しそうに圧し掛かってくる。手はいつの間にかルックの頬へ添えられていて、アスフェルの唇がすぐそこだ。
いやに近いと思った瞬間、アスフェルが顔を傾けてルックに口付けた。角度を変えてちょんちょんと口付けてから、唇でルックを撫でるようなキスだ。
ルックは驚きに目を丸くした。
「アス」
「――ごめん」
ぱっとアスフェルが離れた。
「ルックは怪我人だった。ごめん。灯りを消すから、もう寝よう」
ルックは驚いて固まったままだ。アスフェルが乱暴に自分のバンダナを取り、わしゃわしゃと髪をかき混ぜながらランプを消す。そしてルックに背を向けたまま、隣の寝台へ胡坐をかいて座る。
長い溜息が一回聞こえて、ルックは思わずびくっとした。それでやっと体が動くようになり、アスフェル、と呼びながら起き上がった。
「俺はどうかしている」
「何が」
「浮かれているんだ。山越えを一日でするんじゃなかった。山賊の相手をする必要もなかった。ルックが風の魔法を使えばすぐ済むことでも、単に俺の気が済まなかったんだ」
「どうしたの」
「どうもしない。お休み」
アスフェルはそれきり黙り込んで、なぜか瞑想を始めてしまった。
怒っている? 落ち込んでいる? 浮かれていると言わなかったか?
ルックは目玉がぐるぐる回りそうになった。アスフェルの考えていることがさっぱり分からない。分からないといえばそもそもなぜルックを構いたがるのかも分からないし、ルックを好きだと言ってくれること自体はもう疑っていないけれど、なぜ好きなのかは分からないままだ。まさか、アスフェルが性欲を堪えているとは思いもしない。
テッドとアスフェルがきっとそうしていたのだろう、互いにふざけ合って笑い合うような関係は、ルックにとって敷居が高かった。そうアスフェルに思われたのだろうか?
「アスフェル」
ルックは隣の寝台へ移った。しかしアスフェルは瞑想を止めない。深い呼吸の音は、ルックがいようといまいと関係ないことを表しているように乱れない。
ルックの言動で一喜一憂するこの男が哀れでならなかったのに、いざ反応してもらえないとなったら、ルックは途端に不安に苛まれてしまう。
ルックはアスフェルの服の裾を摘まんだ。それでも反応を示さないから、裾をつんつんと引っ張った。でも駄目だ。瞑想している。ルックはもう一度引っ張ったけれど、アスフェルは彫像のように動かない。もうどうしたら良いのか分からなくなった。諦めて裾から手を離し、ルックは元いた寝台へ戻ろうとする。
するとアスフェルが突然動いた。
ルックの腕は簡単に捕まえられ、くるりと視界が回ったかと思えば寝台に押し倒されていた。アスフェルがルックの真上にいる。
「アス、フェル?」
アスフェルが歯を食い縛っている。目は爛々と光っていて、眉がつり上がっている。
何が起こったのか、把握できない。ルックは万歳をする格好で寝台に押さえつけられ、月明かりでわずかに窺えるアスフェルの形相に目を白黒させる。
「俺はどうかしているんだ」
ぽかんと見上げるルックの唇へ、アスフェルが勢いよく噛み付いた。
ルックは歯の根を鳴らしていた。
アスフェルに衣服を全部剥ぎ取られ、見えるところ全部に口付けをされた。アスフェルが何をしたかったのかはやっと分かったし、二人でしたことがないわけでもない。けれど、それが今この時に始まるとは思わなくて、ルックは間違いなく動揺していた。
それにアスフェルがしゃべらない。自分は服を着たままで、黙ってルックを愛撫している。そうなるとルックも口を開いてはいけないような気がして、アスフェルのすることをただ怖々と見つめるだけになっている。
アスフェルを止めたいけれど嫌なわけじゃない。嫌ではないけれど、心の準備ができていない。しかしそれを言い出したらいつだって準備はできていないからいつだって嫌ということになってしまう。繰り返すがルックは嫌ではないのだ。ただ、得体の知れない恐怖があって行為に抵抗を感じている。
その得体の知れなさを無理に言葉にするならば、アスフェルの内へ住まう、ルックへのおどろおどろしい激情のようなものが恐ろしい。
アスフェルはルックが好きだからこういうことをするのだろうか? ならば、同じ気持ちを覚えないルックはアスフェルを好きじゃないのだろうか? 大事に思うことと劣情とがルックの理屈ではつながらない。ならば、ルックはアスフェルの気持ちを、ルックがアスフェルのことを憎からず思っているに違いないというアスフェルからの信頼を、裏切っていることになりはしないか?
ルックはたまらなくなって顔を覆った。
「アスフェル、待って」
寒くないのに鳥肌が立つ。アスフェルは全然待ってくれなくて、ルックがくすぐったいから嫌だと言った腰の横を撫でてくる。
「アスフェル!」
「……嫌か?」
アスフェルがやっと口を利いた。ぞっとするほど低い声音で、嫌なら止める、と全然止めそうにない雰囲気で続けた。
「足に負担はかけない」
「あ、足、なんか、痛くないし平気。放っといてって言ったでしょ」
「他に痛むところは?」
「ないってば」
アスフェルの顔は暗くてよく見えない。だが、笑っていないことは分かる。
「ルック……」
まただ。また、泣きそうな声だ。
どうしてアスフェルはこうも哀れな男になったのか。ルックのせいだ。ルックに振り回されて、喜怒哀楽の発生源が全部ルックになっている。ルックはアスフェルを従えたかったわけじゃない。アスフェルにこの世を自由に生きてほしかったのだ。なのに今、アスフェルは何かあればルック、ルック、ルックばかりだ。自分のやりたいことは? 何もないのか? ルックがどう感じようと己を貫けばいいのに、どうしてそうしないんだ。ルックがいればそれでいいなんて絶対におかしい。間違っている!
ルックはかっとなって怒鳴った。
「お姫様扱いしないで! 僕はあんたのすべてじゃない!」
「ルック」
「僕に何を求めてるわけ? あんたに抱かれて喜べばいいの? お生憎様、僕はあんたの望むような反応はできない! あんたが僕を優先する限りあんたは僕に裏切られ続けるんだ! そんなのでいいの? 僕はあんたにそんなこと頼んでない!」
思い切り怒鳴って体が震えた。他人を傷つけると分かっていてなお放言してしまう、ルックは自分の浅はかさに心底打ちのめされた。
アスフェルはぽかんとルックを見ていて、ルックはそんなアスフェルを見ていられない。圧し掛かられて逃げ場のないまま顔を背ける。
どうして僕は同じ過ちを繰り返すのだろう。ルックは自分が嫌になる。十五年前に自分から切り捨てておいて、再会したら一夜で落ちた。最も弱っている時に助けてくれたし、耳元で延々、好きだの愛してるだの聞くに堪えない言葉をささやかれ続けて、もう認めないわけにはいかなかった。喜んでいる自分がいることをルックははっきり自覚したのだ。
けれどアスフェルにとってそれはとても哀れなことだ。だから、ルックがばっさり切り捨ててあげるべきなんだ。ああ、繰り返し。アスフェルの優しい、綺麗な思いを、ルックはまたも踏みにじってしまう。
「あんたは何で僕にこんなことするの……」
ルックは顔を手で覆って尋ねた。今のルックはひどく醜い顔をしているに違いない。このままアスフェルがどこかへ行ってくれないだろうか。もうこれ以上、自分の感情を批判していたくない。自分がアスフェルのそばにいてはいけないものだという確信が深まってしまう。
ところが、アスフェルがひょいとルックの手を剥がした。
「お姫様だとも裏切られたとも思っていないよ」
アスフェルは笑顔を浮かべている。分かりやすく作り物の笑顔だ。
「それに、ルックが俺のすべてなんじゃない。逆だ」
「逆?」
「そう。俺は、ルックのすべてを俺のものにしたいんだ」
ルックは思わず息を飲んだ。アスフェルが唇をひん曲げて笑ったからだ。鬼も逃げ出すほど恐ろしい笑い方で、アスフェルはルックに迫ってくる。
「浮かれていると言っただろう。ルックが俺のことで悩めば悩むほど嬉しいし、もし俺がいなくても平気そうな素振りをされると、いったいどうやってその足をへし折ろうかって……俺は何度もひどいことを考えている」
「そういう卑屈なの、止めなよ」
「自分は棚に上げてか?」
「だってあんた、そういうの考える性格じゃないでしょ」
「どうかな」
「他人の足を折って自分が追い付くなんてめんどくさいし無駄なことしない。さっさと自分が先回りすればすむって思ってる」
「――なるほど」
アスフェルから厭らしさがすとんと抜けた。やはりというか何というか、悪役ぶった演技だったのだ。
アスフェルはルックに鼻をすり寄せてきた。
「本当のことを言おう。俺はルックに甘えたいんだよ」
「……あんたが?」
「ルックを甘やかしたい気持ちもあるけれど」
アスフェルはルックの青ざめた瞼へ口付け、かわいいなどと言って喜んでいる。これのどこが甘えているというのだろう。
「そうだな。例えばかつてのルックなら、誰かに怪我を心配されようと歯牙にもかけなかった。違うか?」
「それは……うん、違わないけど」
他人が心配したからといって傷は治らない。他人に治療されようと、自分で癒やしの風を呼ぼうと、結果は変わらない。そもそも心配して治療してくる他人が善人であるとは限らないのだ。そういう名目でルックの紋章を狙っているのかもしれない。
そうやってルックはずっと他人を突き放してきた。その場を和ませるために言葉を選んだりしてこなかった。ルックは常に本音でしか相手と向き合わなかったし、その本音とは多分に相手を侮るもので、相手を苛立たせる物言いであることを理解した上でなお、正す必要性を感じなかった。
「そんなルックが俺には隙を見せるんだ」
「見てほしいって頼んでない」
「まあ、俺の気持ちを世界で一番理解してくれないのがルックだろうからな」
報われないことを認めながらアスフェルは、ルックの目尻に口付けを落としては睫毛がかわいいなどと言って喜んでいる。確かに、ルックにはアスフェルの気持ちなどまったく分からない。さっきからルックはまじめに話しているのに、アスフェルときたらかわいい、かわいいと、そればっかりだ。瞼や睫毛の何が良いんだか。
「じゃあ余計に奇妙だ。何であんたは僕にこんなことするの」
貧相な体からせめてもの服を剥ぎ取って、大して反応の得られない愛撫を施す理由は、何なのだ?
ルックが嫌悪感もあらわに問うと、アスフェルは、それはそれは嬉しそうに笑った。
「伝えるためだ。愛を」
そしてルックの唇に口付ける。
その知的な言葉が好きだと、口に。薄い色素に上る赤味が好きだと、頬に。短くてもさらさらしていて美しいと髪に口付けられて、聞いていないふりをしてきちんと聞いてくれる優しさが好きだと、耳に。
ルックは羞恥のあまりアスフェルの口を手で塞いだ。
「筋力がないのに杖を持つ時は揺らがないこの手も、好きだよ」
駄目だ、いくら口を塞いでも、もごもごと恥ずかしいことを言われて手のひらへ口付けられる。
そういえば、アスフェルはまず最初にルックの全身へ口付けたのだった。思い出してルックは茹でだこのようになってしまう。アスフェルがルックを好きだということはもう充分思い知っているのだ、これ以上は受け止めきれない。けれどアスフェルにとってはまだ足りないのだろう。信じられないが、ルックが受け止めきれないほどルックのことを好いているらしい。
アスフェルはかわいそうだ、とルックは先ほどまでと違う意味で哀れんだ。この男は、自分ばかりがルックを好きでたまらないと思っているのだ。ルックがそっけなくても何とも思わないくらい。だから甘えたいなんていうくだらない望みを変に押し隠したりするし、甘やかしにすり替えて納得している。
「好きだよ、ルック」
アスフェルが再びルックの唇に口付ける。ちょんとくっ付けてすぐに離れていこうとする彼の唇は、ただ無償の愛を寿ぐだけのものになり下がっている。そんなの、哀れだ。アスフェルがそんな目に遭うのをルックは黙って見ていられない。
ルックは思わずアスフェルの髪を掴んでいた。引っ張って手繰り寄せて、えいっと自分から勢いよくアスフェルに口付けた。
(あんたがかわいそうだよ)
そう念じながら口付ける。唇と唇を重ね合わせるだけの幼稚なキスだ。
(僕だってあんたのことを大事にしたい)
しゃべっているつもりで、その長さの分だけ唇をくっ付けたまま、ルックはアスフェルを睨み上げる。
(あんたのことが、この世界よりも大事なんだ)
世界そのものと天秤にかけてたった一人を選び取ることを愛と呼ぶならば、ルックはもうずっとアスフェルを愛している。
キスの間止めていた息が続かなくなってルックは仕方なく唇を離した。恥ずかしさより憤りが大きく、ふんと鼻を鳴らして毒づく。
「僕があんたに気持ちの上で劣ってると思わないで」
「ル、ック……?」
アスフェルがルックを凝視した。失礼なことに、得体の知れないものを見ているような顔だ。さっきはルックがそんな気持ちを覚えたのだけれど、自分がされると腹が立つ。むかむかしてきてルックはもう一度口付ける。
(あんただって与えられてびっくりすればいい)
やってみれば、これほど便利なものもなかった。好きとか性欲とか、そういう俗な言葉に置き換えようとするからうまくいかないのであって、ルックは確かにアスフェルへ心を開いていると伝えるためなら簡単だ。
青天の霹靂とでも言いたげなアスフェルの顔がおかしかった。ルックは満足して唇を離そうとした。
だが、アスフェルの雰囲気が変わる。
口を喰われるようにキスをされ、アスフェルの舌が入り込んでくる。いつの間にか彼の腕の中にがっしり閉じ込められていて動けない。身動きできずにキスを続けられ、息を止めていられなくなってルックは鼻で息をする。すると息に混ざって声が、子犬の鳴くようなみじめな声が漏れてしまう。
アスフェルのキスは長かった。好きだよを百回は繰り返せるくらいの時間、口内の柔らかい粘膜を縦横無尽に荒らされて、ルックは震える手でアスフェルの胸を押し返した。
「あす、ふぇ……まって、息が……」
息がうまく吸えない。頭に靄がかかったみたいだ。
アスフェルは従順に押し返されたふりをしてルックの髪をひと掬い手に取った。腹が立つことに余裕綽々だ。ルックがやっと呼吸を取り戻すと、せっかく整った息をまた乱すようにして口付けてくる。今度は好きだよを二百回も繰り返すくらいだ。
(僕が負けてる)
好きだよと実際に言われるよりよほど堪えた。体に直接言葉を流し込まれるようだ。ルックは溺れそうになりながら必死でアスフェルの服を引っ張り、舌をアスフェルへ精一杯差し出す。
(僕は怖いんだ)
今までの、誰にも頼らず一人で生きてきた自分が怖がっているんだ。だから自分の領域を侵されるととても平静ではいられなくなる。
(でも僕だってあんたに与えたい。そんなのが僕にもあるんだったら)
そんなものはひとつもないと思っているから自分からどうぞとは言ってあげられない。けれど、アスフェルがほしがるならば、全部与えて構わないのだ。
おずおずと差し出したルックの思いは伝わっただろうか。
ルックが間近にあるアスフェルの目を見上げると、アスフェルは頷いたようだった。やわやわと舌を絡められ、吸い上げられて、ルックはこのキスがしっかり伝わったことを知った。
(そうか……僕は、ちゃんと、あんたが好きなんだ……)
ふいに体中の感覚が冴え渡った。アスフェルの唇のしっとりした柔らかさ、アスフェルが密着している胴体の重さ。アスフェルの腕は強硬にルックを閉じ込めているが、手は優しくルックの頬を撫でている。
ルックはぎゅうっとアスフェルにしがみ付いた。体中がくすぐったくてじっとしていられなくなったのだ。背筋がぞくぞくするし、心臓が今にも胸を突き破って飛び出しそうだ。それに、あらぬところにも疼きを覚えて当惑する。何だか熱を持っているようなそこを思いきり掻きむしってしまいたい。突然降って湧いた、自分でも制御できない衝動だ。
ルックはどうにかしてほしくてアスフェルの背中をぺちぺち叩いた。アスフェルが唇を名残惜しげに離し、真剣な顔でルックを見つめた。
「足は痛まないな?」
ルックはこくこく頷いた。体が震える。足の痛みなんてごく表層の感覚に過ぎず、今のルックが覚えているのは体の奥からこみ上げてくる衝動なのだ。ルックはものも言えずにアスフェルの服を引っ張って催促する。
アスフェルが自分の服を脱いだ。ほのかな月明かりに彼の裸体が美しく、ルックははっきり、生唾を飲み込む己を認識した。
互いに素肌をさらして抱き合う。
アスフェルの肌が触れるところすべて、火花が散ったように熱かった。アスフェルの唇がルックのそこかしこに触れ、ルックはそのたび体を跳ねさせる。戦闘で切り裂かれてもこうはなるまい。声が勝手に漏れてしまうのは怖いからか不安なのか。ルックは何かすがり付くものを求めて寝台に手をさ迷わせる。見つけたのはアスフェルの脱いだ服だ。ルックはそれで顔を覆って、服を噛み締めて声を殺す。アスフェルの唇がルックの体を下へ、下へと辿っていく間じゅうずっと、ルックの体は震えっぱなしで、全身から汗が噴き出している。
やがてアスフェルがルックの太股に手を置いた。普段なら恥ずかしいと思うはずが、今は一刻も早く掻きむしってほしくてルックは自分から足を立てた。
「本当に、他に怪我はないな?」
じれったくてたまらない。ルックは顔を覆ったまま何度も頷くけれど、アスフェルはなかなか先に進まない。
「アスフェル……もうやだ、早く何とかして……」
くぐもった声でルックは懇願した。
「怪我してもいいから……後でちゃんと治すから……!」
「良くない」
アスフェルだって、声色が焦りを帯びているのに。
ルックがじりじりした思いに必死で耐えていると、硬質な容器の音が聞こえ、香油の華やかな香りが漂った。いつもの香りだ。こういうことをする時に嗅ぐ香りである。それだけでルックはきゅっと足の爪先を丸めてしまい、全身が強い期待に染まった。
「挿れるよ」
つぷんとアスフェルの指が入ってきた。ルックは堪えきれず悲鳴を上げた。脳みそを直接掻き回されるようだ。背中が勝手に反り、アスフェルの指を締め上げてしまう。
「アス、アスフェル、アスフェル……っ」
「痛くないか?」
「い、痛くていい、から」
「俺が嫌だ」
「ちが、痛くな、ない、痛くない」
「本当に?」
「ほんと、本当だから……!」
じれったさが頂点に来ていた。ルックは足でアスフェルの胴体を蹴った。けれど足がわなわな震えてまったく力が入らない。アスフェルはゆっくり指を動かすばかりで、早く掻きむしってほしいのに全然足りない。ルックはもう息もまともにできなくなる。
「アスフェルのばか……! 来てってば……!」
顔を覆っていた服を投げ捨てた。ルックはアスフェルを手招きし、応じてちゃんと近付いてくれるアスフェルの唇へがむしゃらにかじり付いた。
(怖い、苦しい、自分が自分じゃないみたいだ)
キスで必死に訴える。
(僕はおかしくなってる。理由がないのに早くあんたのがほしい)
アスフェルの性欲が怖かったのに、自分のこの、内側から体を突き破って出てきそうな衝動の正体が分からない。性欲というにはあまりにも貪欲で、鮮烈で、生命に直結している気がする。今もらえなかったら渇いて干からびて死んでしまいそうだ。
ルックは拙くキスをねだった。アスフェルが丁寧にルックの舌を導いてくれるけれど、ルックはアスフェルの舌を噛みちぎる勢いで口付けた。飲み込めない唾液が口角を零れ落ちる。
(待ちきれなくて死んだらどうするの)
溺れそうな感覚はずっと続いている。多分魚が陸に出たらこんな感じだ。
急かすルックに根負けしたのか、アスフェルの指がそっと抜かれた。嫌だ、出て行かないで、といじけるみたいにお腹の中がひくひくしている。空っぽで切なくてルックは闇雲に足をばたつかせ、アスフェルが自身をルックへあてがう感触に総毛立つ。
アスフェルはやんわり侵入してきた。そんなに勢いはなかったにも関わらず、ルックは自らを開かれた瞬間、唇を離して叫んでいた。
意識が途切れ途切れになる。圧倒的な質量がルックの内を満たしている。目がちかちかして、全身が燃えるようだ。死ぬ前はこんな風になるんだろうか。いや、全然違う。もう死にそうだと思うのに鼓動は激しく波打っている。
「痛くないか? 苦しい?」
アスフェルが丁寧に尋ねてくれる。けれど、ぜいぜいと喉を鳴らすだけで精一杯だ。答えられない。闇を掻き分けるようにして手を振り回し、アスフェルを掴んで引き寄せる。
(苦しいよ、体がめちゃくちゃになってる)
前歯がかつんと当たる口付けで伝える。アスフェルと触れ合う唇がルックに残った最後の理性だ。ルックの体はどうなっているのだろう、細かい泡になって弾けてでもいるのか。アスフェルにどこをどうされてもぱちぱちしている。こんなの知らない。今まで感じたことがない。
「ルックも気持ち良い?」
アスフェルがルックを覗き込んで尋ねた。ルックも、ということは、アスフェルは気持ち良いのだろうか。
――そうか。これを気持ち良いというんだ。
ルックはぱちぱちするものの正体を知る。すると、最も弾けているのが直接触れられているところではなく頭の真ん中だと分かる。いらないものが弾けて焼け焦げて、そうしたらルックにはまともなものが残らない。ルックはいやいやをするようにかぶりを振る。キスだ、キスで伝えないと。
「あ、ぅふぇ、ぅ……!」
たどたどしくアスフェルを手招いて口付けて、ルックは口付けたまま喉の奥で声を出した。
(あんたと永遠につながっていたい)
馬鹿らしい、そんな非現実的なこと。でも今はその非現実的なことが、自らの体をもって行われている。
気持ち良い。二人で気持ち良くなっていることがさらに気持ち良い。このままアスフェルと溶け合って、アスフェルの一部になってしまえたらもっと気持ち良いだろう。そうすればきっとアスフェルの優しさにずっと包まれていられるし、ずっと一緒にいられる。自分なんかなくなったっていい。あんたと一つになるのが気持ち良いんだってこと、今やっと分かったんだ。
けれどアスフェルがルックの唇を噛んだ。目を覚ませと怒っているようだ。ちりっとした痛みが走って、我に返る。
(そっか……、一つになったら、あんたは一人になっちゃうんだ)
だからこうして行為に及ぶのか。普段は二人、違う存在としてあるからこそ、束の間体を重ねて酔うのか。それなら理解できる。アスフェルがルックへ向けてくる狂暴な衝動性も、彼なりに煩悶した末の欲求なのだろう。ルックを自分のものにしたいと言ったのは演技でも何でもなく、彼を蝕む醜い本音のうちの一つに相違ないのかもしれない。もちろん本心のほとんどでアスフェルはそんなことを望まないから、こうして束の間、体をつなげて醜い欲求を満たしている。
ルックは音を立ててアスフェルと口付けた。もう体は震えっぱなしで、下腹部には生温く濡れた感触がしていた。しかし怖くはなくなっている。怖いくらい強烈に気持ち良いだけだ。気持ち良くてぞわぞわして、アスフェルが体の半分以上奥まで入ってきているように感じる。このまま頭まで押し入られ、全部塗り潰されそうだ。そうなる前にキスで伝えなければならない。
(好きだよ。僕はあんたが好き)
アスフェルのキスが深くなる。きっと同じことを伝え合っている。
(あんたに好きだって伝えるためには、僕は、ここにいなくちゃいけないんだ)
アスフェルと分かたれたままで、この現世に存在していなければならない。ルックは生きていなくてはならない。きっとアスフェルも同じことを思っている。
やがて体の中へ直接キスをされた感触がして、アスフェルがルックの上へ崩れるようにして覆い被さった。肩が細かく震えている。ルックの体内にどろどろと、アスフェルのものが流し込まれているのだ。ルックは背筋をしならせてみるみる真っ赤になって、さっきまでの気持ち良さをはるかに凌駕する高揚に襲われて、もう体内に留めていられない。ついに限界を超えた溢れんばかりの激情、それが一気に噴出するのを、何だか他人事のように遠くに感じる。
熱と波はなかなか引かなかった。先に落ち着いたアスフェルがしばらく、ルックに覆い被さったままじっとルックを抱きしめてくれていた。ルックは現実と夢との境目が曖昧になったようなふわふわした心地で、腹に収めたものの感触をうっとり味わっていた。
しかしいつまでも入れたままではいられない。アスフェルが名残惜しそうにルックとのつながりを解くと、ゆるやかに起き上がって、ルックを助け起こそうとする。
「ルック、ルック?」
ルックはとろんとした目でアスフェルを見上げた。ルックの体はまだ溶けていて、何だか雲の上にいるみたいだ。アスフェル、と呼びかけたつもりが、声にならない。赤子のような音だけが小さくのどから出ている。
「ルック、どうした?」
動こうと思っても体がふにゃふにゃなのだ。手や足や、胸や頭にアスフェルの余韻が色濃く残っていて、そこからじくじくと気持ち良さが滲み出している。今は何もされていないのにじわっと気持ち良い。
アスフェルが気遣わしげに手の甲でルックの頬を撫でた。アスフェルの匂い、アスフェルの体温、それらがルックを優しく労わり、ルックはひくんと背筋をのけ反らせた。酩酊するほど気持ち良い。頭がまるで綿菓子を掴むみたいにしゅわしゅわと弾けていくようだ。
アスフェルが眉間に皺を寄せてつぶやく。
「ルックは俺に隙を見せすぎだ……」
なぜか苦々しそうだが、それでアスフェルを甘やかすことになるなら、たまにはたっぷり見せてやってもいいではないか。
ルックはわずかに動く手で、寝台をぺちぺち叩いて知らせる。眠たいから眠るまで甘やかして、と。するとアスフェルが素早くルックの横に寝転び、ルックを腕の内に囲い込む。
「好きだよ、ルック」
へらへら笑いながらルックを抱きしめて、アスフェルは二人の上に布団をかけた。
ルックの瞼に、頬に、額に、おびただしくキスの雨が降る。二人きりの静かな部屋で、うるさいくらいにアスフェルの愛が降り注ぐ。ルックはとろんとしたまま頼りなくアスフェルにキスを返し、唇を合わせる気持ち良さに目を細める。
夜は静かに更けていく。
翌朝、ルックは足がつった痛みで起きた。
アスフェルはまるでルックの服ででもあるかのようにべったり貼り付いていて、ルックが起きたと気付いてもいっこうに腕を解かない。
「アスフェル痛い、痛い」
ルックがうめくとアスフェルは笑った。痛いと言っているのにこれだ。昨夜はあんなに優しかったのに。
……と、昨夜の痴態を思い出してしまって、ルックはあまりの恥ずかしさに顔を覆う。アスフェルの笑顔を直視できない。アスフェルが幸せならもちろんそれは喜ばしいけれど、アスフェルの笑顔は「ルックが今日もかわいくて幸せだなあ」という甘ったるさが如実に伝わってくるのである。ルックはお姫様でもぬいぐるみでもないのだ。そんな顔をされてもいたたまれないし、直視できないに決まっているではないか。
それに、お腹が痛くなり始めていた。昨日、ちゃんと後始末をしなかったせいだ。
ルックは恥ずかしさに耐えかねたふりをしてアスフェルの腕から強引に抜け出した。実際、恥ずかしさに耐えかねる気持ちもあったので嘘ではない。
しかし寝台から出ると靴擦れは痛むし、つった足も痛いし、筋肉痛でふくらはぎも痛くて腰もお尻もお腹も痛い。散々だ。それから太股も、痛くはないが昨夜の名残でぎくしゃくしている。
太股が強張るほどの痴態をまた思い出してしまって、ぶわっと顔が赤くなった。
「ルック、お腹が空いた?」
「洗面所!」
ルックは癒しの風を呼んだ。部屋に清々しい風が巻き起こり、ルックの傷を綺麗に癒やして去っていく。アスフェルが手当てしてくれていたから回復が早い。だが、残念ながら筋肉痛や腹痛には効かないので、ルックはよろよろと立ち上がって服を着る。宿の共用洗面所に行くためだ。
「ルック、靴はまだ履かない方がいい。血が付いたままだろう」
「そこまで付いてないよ」
「今日俺がしっかり拭き取って乾かすから」
「え? もう一泊するの?」
「だから、今日は履けない。いいね」
「良くないでしょ。裸足で洗面所に行けって言うわけ?」
アスフェルがのっそり起き上がった。
「心配ない。俺が抱いて運ぼう」
腕を広げて構えるアスフェルときたらつやつやの笑顔に、全裸だ。
ルックはアスフェルの靴を勝手に履いて、アスフェルを置き去りにして部屋を出る。アスフェルの馬鹿! と小さな声で何度も怒鳴り、大きさの合わない靴を引きずるようにして、鼻息も荒く廊下を歩く。
置き去りにしたアスフェルが楽しそうにくつくつ笑っていることくらいお見通しだ。そして、そんな風に相手の好ましい反応を無邪気に信じている今の自分のことを、ルックは昨日ほど嫌いではなくなっている。
……そうか、もう一日ここでゆっくりできるのか。
ルックは自覚せず、唇を指で触っている。耳にじわじわと朱が上るのを、今はアスフェルの靴だけが見ている。
アスフェル本人が目撃するのは、きっともうすぐだ。
プロットも何もなくただ目の前に見える鮮明な幻覚を文にしただけの坊ルクちゃんでした。
書いててめちゃくちゃ楽しかった!
この初夜みたいなやり取りを週一でしているという妄想でさらに楽しいです。
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