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夕 凪 大 地

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「狂える嵐海」

1周年にこだわってみたトロよんです。
マイ設定満載ですがトロよんだしもういいよね(笑)




 一年前は、雨だった。
 海は荒れ狂う暴風に逆巻き凶悪なうねりを岸へ叩きつけ、まばらに生えた椰子の木や草が軒並み横薙ぎにされていた。葦葺きの屋根から雨水が漏れる。木を組み合わせて作られた壁へ隙間風と微細な雨粒が間断なく吹きこんでいた。
(…寒かったね)
 手を止め上半身を捻って、舳先へ立つ背にキキョウは心で呼びかける。
 今はうららかな日差しが小舟へ柔らかく降り注ぎ、波は穏やか、はるか南東に真っ白な雲がぽつりと浮いているだけだ。黄金色に輝く海と青く澄んだ海らしい海がどこまでも視野を埋めて広がる。
 一年前と似ても似つかぬ光景だ。
(…寒かったね、トロイさん)
 キキョウは膝へ手を乗せた。爽風になぶられた皮膚の表面はひんやり心地よく冷たい。櫂を漕ぐ腕が陽光に晒されて熱かったのだ。汗ばむ手のひらを乾いた膝で軽く拭う。
 一年前は、ぐしょぐしょに濡れた体が氷みたいだった。死んだと思った。否、もう死んでいると思っていたのだ。他ならぬ自分が殺したものと。けれどどうしてか生きていた彼は今度こそ死にかけていて、キキョウは必死で、一心不乱に、凍える素肌を温めた。
 それが、こうして連れ立つ元敵将トロイと再び出会った一年前である。
(…もしもあのとき、晴天だったら)
「――どうした? キキョウ」
「…あ」
「今、私に何かを問うたと思ったが?」
「…ううん」
 無意識のうちに声を出していたらしい。舳先でトロイが振り返る。
 距離にして数キロ、陸続きである隣の浜まで移動するだけの渡し舟はきわめて原始的な作りをしていて、船頭さえも同乗しない。陸路は間になだらかではない丘があるため、土民はもっぱら舟を使い、旅人もそうした短距離移動用の手漕ぎ舟を借りるのだ。
「交代しようか」
「…ううん」
「桟橋はもう目前だ。頼む」
「…うん」
 トロイの視線を腕に感じて、キキョウは慌てて櫂を両手に握り直した。しばらく漕ぐ手を止めていたのだ。上半身を艫の方へ戻し、櫂を手前へ引くと同時に重心を後ろへ傾がせてやれば、小舟は途端にぐいと前方へ速度を上げる。
(…雨で)
 夜更けになってやっと暴風が治まったものの、雨は重たく降り続けていた。雨漏りのせいで小屋の中の薪はすべて湿気って火がつかず、板間の床も濡れたところから材木の匂いがぷんぷんとした。彼の身体へ確かに自分が斬った跡を見つけてしまう。体温を彼に分け与え、キキョウは震え、朝の来るのをただただひたすら待ち望む。嵐の去るのを。海が鎮まるのを。
 あれから一年が経ったのだ。昨年の今夜、一年前の情景を、キキョウの脳は今起こっているできごとのように鮮やかに刻みこんでいる。
(…雨でよかった)
 キキョウは流れる海水を見た。触れればきっと太陽にぬくめられてどこか生温く感じるだろう。覗き込めば海草も見える。青々と陽を受けている。今日の海は元気で大らかな性格だ。
 だけど一年前の今日は、別人と化したまさに狂海そのものだった。そして結果的にそれでよかった。
 仮に、もし万が一、今日と同じ天候だったら――キキョウは考えて櫂を持つ手に力を込める。トロイが右へと指図する声がキキョウの耳へかろうじて届く。桟橋へ舫うための誘導はトロイに任せきってしまおう。キキョウはわずかに仰のいてまばゆい陽光を瞼で翳す。
 呟くのは胸のうちにだけ。
(…晴れていたら)
 きっと、あなたと出会えなかった。


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