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夕 凪 大 地

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「飴の思い出」

ということで、新たにカテゴリーも追加しまして小小話です。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


げほごほごほ、と聞くに堪えない雑音の連打。
アスフェルは綺麗な柳眉をわずか顰める。
「ルックって……実は見た目通りにひ弱?」
「一言よけ、っげほ」
額に伸ばした手はあえなくぱしんと払われた。
そのまま仰向けに寝転がるルック。

「あー……、喉痛い、げほん」

アスフェルの寝台を占拠して、ルックはなおも咳き込み続ける。
アスフェルの部屋は風邪独特の甘ったるい匂いが充満していた。



生まれてこのかた大病を患ったことがない。
風邪は引いても数時間休めばすぐ治ったし、怪我も小さなすり傷程度。
身体が健康でなくなる苦しみはアスフェルの経験からひどく遠いところに位置する。
それでも傍観だけなら先例はたくさんあって、例えば肺炎で逝った母親だとか、飼っていた犬が老衰で死んだ時だとか。
どちらも幼少の頃の鮮烈な記憶だ。
苦しいのだろう、痛むのだろうと、乾く唇や震える眼窩を、アスフェルはまんじりともせず見ていたように思う。
今もアスフェルのベッドで嫌な咳をするルックは、ほんのり頬や首元が火照っていて、体温の高くなっていることをアスフェルに窺わせた。
「リュウカンに咳止めをもらってこようか」
「い、らない、薬は嫌い。……はぁ」
ルックは咳の合間、苦しげに息を吐く。
残念ながら医者でないアスフェルにはつらそうなルックを目の前にして何も手を施してやりようがない。
ああ、こんな時、ちょっとでも楽になる方法を知っていたら。
熱が出たら暑いのだろうか、それとも、寒けがするのだろうか。
きちんと風邪を引いたことのないアスフェルにはそんなことさえぴんとこない。
まだまだ勉強不足だ。
「……水分は、必要だったはず……」
アスフェルは一生懸命考える。
グレミオがそう言っていたような気がする。
いつどこでかは思い出せぬが、アスフェルはグレミオの発言をほとんどすべて覚えている。
もう、本人には、問うことも叶わないから。
確かそう聞いたと確信して、アスフェルは水差しを手に取り尋ねてみる。
「ルック、飲める?」
その途端。
ルックは再び激しく咳き上げた。
アスフェルは思わずびくりと指先を震わせる。
ほっそりした繊細そうなルックの体のどこからこんなざらざらした不協和音が奏でられるのかまったく分からない。
ひとしきり咳き込んだルックはついにひどくえずき始める。
アスフェルは背を擦ってやることも失念するくらい珍しく動揺した。
きっと気管に傷がついているのだろう。
咳をし過ぎると喉に傷ができて、それが痛むから余計に咳をするのだと、これもまたグレミオが言っていたのではなかったか。
そんな時はね、喉に効く漢方薬を舌に乗せて、溶かすように少しずつ舐めると良いですよ。
一番上の棚、右端に置いておきますね。
もし切らしてしまっても大丈夫、この缶にのど飴を入れておきますから。
ゆっくり舐めるとだいぶましになります。
アスフェルはおろおろしながらグレミオの言葉を反芻する。
水差しをサイドボードへ荒っぽく戻し、記憶の示すままに戸棚を開ける。
グレミオが整然と並べていったままの瓶やら本類。
ほのかに防虫剤の芳香。
アスフェルは一番上の右端へ手を伸ばした。
グレミオの言っていた漢方薬は薬を嫌うルックに飲ませにくいだろう。
隣の四角い缶を取る。
振ればころころ硬い音。
蓋を開け、左手にひとつ出してみる。
何の変哲もない茶色の玉だ。
きっとグレミオが死ぬ直前に仕舞っておいたものだろうから、まだ一年も経っていまい。
まさか腐ってはいないだろう。
げほんと痰の絡む咳音にアスフェルは急いで寝台へ戻った。
ルックは寝台で子猫のように丸まって、涙目をこちらへ向けてくる。
「食べられる?」
聞けど、ふるりと首が横に振られるのみ。
引き続き咳き入るルックの様子にアスフェルはいてもたってもいられなくなる。
「ごめん」
何故だか先に前置きをして。
アスフェルは、ぽいと一粒含んだ飴を、ルックへ舌で押し込んだ。
ころりと渡った丸い飴は黒砂糖の濃い甘味。
アスフェルの口内で表面が溶けて、ぬるり、ルックの唇を深く彩る。
ルックはしばらく咳を吐く。
アスフェルはじっと見守っている。
咳をしながら飴をちびちび舐めると、何度か喉を嚥下させる。
「……まし、かも」
ようやく咳が静まった。
喉に手のひらを当てながら、ルックは少し恥じ入った顔をした。





アスフェルが薬学の勉強を始めたのはこの時からである。
以来すっかり医術も人並み以上に心得て、よほどの急患でない限りは大抵その場で処置できるまでになった。
「あんな昔から、ルックのために頑張ってたんだなあって」
「自賛?」
あれから二十年。
ルックは相変わらずひ弱なままだ。
寝台へ潜り込むルックにそっと冷やしたタオルを乗せて、アスフェルはふわりと柔らかく笑う。
ルックはこほんと軽く噎せる。
アスフェルはその頬をゆっくり撫ぜた。
薬箱にはあの時から欠かさず飴が仕舞われている。
片手で器用に缶を取り出すと、アスフェルは一粒、ゆっくり口に含んだ。


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